こんにちは!「老年学の小径」へようこそ、Saturnです。皆さんは、このようなことを考えたことはありませんか?

私たちって何のために生きているんでしょうか?
これって人間が一度は抱くであろう疑問ですよね。全人類に共通する悩みであるものの、ハッキリとした答えの見つからないこの疑問……。これについて考えるヒントをくれるのが、「若者のための〈死〉の倫理学(三谷 尚澄 著)」でした。本書には、
- なぜ私たちは生きづらさを感じるのか?
- それでも私たちが死なずに生き続けてきた理由は?
- 世の先人たちは、この疑問についてどのように考えてきたのか?
といった問いに対して詳しく述べられております。
Contents
なぜ私たちは生きづらさを感じるのか?
本書の前半では、「生の困難」は時代背景に大きく左右されうると述べられています。
この本が出版されたのは、2013年2月。日本中を不安に陥れた東日本大震災が起きてから、まだ2年も経っていないタイミングです。
そこから長い時間が経ちましたが、近年であれば新型コロナウイルスの流行、ロシア対ウクライナの戦争、新たに重なる自然災害、気候変動、物価の高騰などなど、実に人類にとって「生きづらい」と思える状況が続いています。


このような状況下での「生」について、このような記述がありました。
なにかがおかしい。でも、立ち上がって戦おう、世の中を変えるべく努力しよう、とは思わない。だって、いまのままでそれなりに居心地がいいから。すくなくとも、いまがどん底じゃないことくらいは分かるから。生きていたいわけじゃない。でも、死にたいわけでもない。進むも引くもできない。
(「若者のための〈死〉の倫理学(三谷 尚澄 著)」より)
たしかに、今の時代に対して「おかしい」と感じることは多々あります。しかし、それに対して直接何かできるというわけでもない。このような無力感に苛まれるからこそ、生きづらさに繋がるのかも知れません。このメカニズムは、本書においても「生の無力感」と表現されています。
苦しい世の中で、私たちが生き続ける理由

こんなに苦しいのに、なぜ世の中の多くの人たちは生きることを選んできたの?

大変なことも多いけど、かといって四六時中絶望しているというわけでもない……。「生きる希望」って何だろう?
こうした疑問に対し、本書では「ハッピーエンドの夢」を捨て去らずにきたためと述べられています。これは思想史家であるアイザリア・バーリンによる考え方であり、古今東西の人類は、いかなる困難に直面しようとも、回り道しようとも、最終的には幸福で自由、公正な世界の実現へと向かって進歩していると信じて生きてきたというもの。言われてみれば、自分にも思い当たる節があります。
しかし、実際の世界はどうでしょうか。人類は環境破壊や対立、戦争を繰り返し、頑張っても報われない理不尽なことばかり。むしろ生きづらさは増していると感じます。

じゃあ、生きる希望なんて持てないじゃん……。
そこで、本書では次にテーマを「生きる理由」から「死なないでいる理由」に切り替えて展開が進められます。
絶望からの逃避
問いを遠ざけ、真摯に「いま」を、自分の「生」をみすえることをせず、「都合のよい真実」だけが目に入るようにするわたしたちの防衛本能。「みたくない現実」からは目をそらし、すこやかな暮らしを維持するために人びとが採用するフェイルセーフ(多重安全)の設計思想。この態度は、わたしたちの日常に染み通っている。
(「若者のための〈死〉の倫理学(三谷 尚澄 著)」より)
そう、私たちは防衛本能として、絶望的な真実から目を背け、そもそも考えないようにすることで、何とか生きる希望を繋いでいるのです。

歯が痛いのに、「まさか自分が虫歯になるはずなんてない、これは知覚過敏だ」って思い込んで歯医者にいくの渋ってました……。こういうことなんですね……。
このように「絶望からの逃避」には様々な事例があれど、その中でも最も重いテーマとして、「死」が本書では取り上げられています。

たしかに、私たちの日常生活でも”死”に関する話題って避けられますよね!
ここまで読んで、私Saturnはこう感じました。
生きていても苦しいことばかり、かといって生き続けた先に待っているのは”死”……。
全人類は、もはや苦しむために生きているのではないか?
この疑問について、次のパートで考えていきます。
私たちが生きる理由
本書の中では、19~20世紀のアメリカの宗教心理学者、ウィリアム・ジェイムズの考え方が取り上げられています。それが、「すこやかな心」と「病める魂」といった、個人の性格における2種類の類型です。
「すこやかな心」の持ち主は、自身の人生に満足しており、生きる意味について疑問を抱くことがありません。これに対して「病める魂」の持ち主は、自分の人生に満足を見出すことができず、「人間は、なんのために生きているか」といった問いに強い関心を抱くことが多いそう。
後者の「病める魂」が直面するであろう「苦しみ」について、この後より深い考察がなされていきます。

「苦しみ」って、ただただ辛いだけじゃないんですか?

次はそんな「苦しみ」にも意味を見出した先人の考え方について、本書に挙げられている事例を紹介していきます。
フランクルの例
オーストリアの精神科医・ヴィクトール・フランクルは、ナチス・ドイツによる強制収容所での過酷な生活を経験されたことで有名な方です。


「夜と霧」「それでも人生にイエスと言う」などの著作が有名ですね。
行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。苦しむこともまた生きることの一部であるのなら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。そして、およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにもまた意味が見出されるはずだー。
本書では上記のフランクルの発言が引用されておりました。苦しみにさえも意味を見出すことで、まさにどんな絶望的な状況でも、生きる希望が持てるような考え方ですよね。
西田幾多郎の例
次は、明治~昭和を生きた日本の哲学者・西田幾多郎の考え方を紹介します。西田氏もまた、次女と五女を幼くして失うという、壮絶な喪失体験をされています。

この喪失体験について、西田氏は「たとえ多くの人に記憶せられ、惜まれずとも、懐かしかった親が心に刻める深き記念、骨にも徹する痛切なる悲哀は寂しき死をも慰め得て余りあるとも思う」と述べております。
現実的に考えれば、死者に思いを巡らせたところで、その人が帰ってくるというわけでもなく、実際には何も変わりません。しかしだからといって、愛する人やペットが亡くなったら何もしない…なんて人はそういないでしょう。それは、本書によれば「無意味の空虚を埋める『深き意味』が現れる」から。

この考え方こそが、科学だけでは解決しきれない、宗教や哲学といった分野特有のものなのかも知れませんね。
結局、生きる意味に根拠なんていらない?
ここまで散々濃密な解説が続きましたが、結局私たちが生きる意味って何なのでしょうか?
この問いについて、終盤で筆者・三谷はこのように回答しています。
大上段からそう問われたら、私にも答えは分からないままだ。でも、それでいいじゃないか、とわたしは思っている。ときに、ふと深呼吸をして、「ああ、もうすこし生きてみようか」、ほんの一瞬と知りながら、そうつぶやける瞬間がある。それで十分じゃないか。
この考え方は、別れの場面などに感じる「もうこれで終わりなのだ」「二度とこの場所に来ることはない」といった何とも言えない寂しさに通ずる所があるとのこと。

このことについて、筆者は「これらのすべてを失くしたくない。もうすこしだけでも生きていたい」と表現し、そうした瞬間が人生にあるのなら、それは十分”生きる理由””死なない理由”に値すると述べています。
先人たちの様々な考え方についても触れてきた結果の「生きる理由」にしては、何ともロマンチックな答えと言えるかも知れません。たしかに人生の1つ1つに意味を持たせることも、もちろん大事なこと。でも、「今この瞬間を生きる・楽しむ」という考え方も、時に人生にとっては欠かせないと思います。
まとめ~時に人生について深く考えて、時に今を楽しんで生きよう
いかがでしたでしょうか?哲学については素人のSaturnにとってはなかなか難解な本でしたが、筆者の考え方については思い当たる節も多く、時に深く共感しながら読み進めていくことができました。
辛いことも多い現代、人生の困難に意味を見出すことで乗り越えていくことも大切です。しかし時には、愛おしい人生の瞬間を純粋に楽しむことも大切なんだなと学ぶことができました。

時に哲学者になり、時に純粋無垢な子どもになりながら生きなさいってことですね!
最後まで読んでくださってありがとうございました。
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